まわる綾なす糸つぐみ、55日のカウント・ダウン、 鷹が翔び・鯨汐吹く・・・箱館湾、 「山本琢磨」変名す。
ロシア領事ゴシケーヴィチは、妻エリザヴェータの連れ子ヴラヂーミルに日本の剣道を学ばせたいと考えていて、「澤邊」を領事館の雇人として箱館奉行所へ申告して、 元冶元年(1864年)領事館員への剣術指南役になりました。 「ニコライ」との出会い 「新島」を脱国させた1年後の慶応元年(1865年)、かねてより領事館敷地内で、巨漢で黒のワンピース姿の僧らしき男に不審を感じ、腰に大小を帯び「尊王」を「邪教」をもって害たらんとする「ニコライ」に、天誅をもって「攘夷」せんと、語気荒く詰め寄ったようです。(諸書には晩年の「澤邊」が語ったとする逸話を引用していますが、ここでは別の展開をします) 「亜使徒日本の大主教聖ニコライ」が若き日に、その心血をそそいだ祈祷文は、今もハリストス正教会の現行祈祷書「大連祷」にあります。 (抜粋)、「我等安和にして主に祈らん、上より降る安和と我等が霊の救いの為に主に祈らん」〜「我が国の天皇及び国を司る者の為に主に祈らん」〜「気候順和、五穀豊穣、天下泰平の為に主に祈らん、航海する者、旅行する者、病を患うる者、艱難に遭う者、虜となりし者、及び彼等の救いの為に主に祈らん」と。 この「神の基、人すべて平等なり」をもって諭された「澤邊」は、まさしくその時人としての転機と捉えて、そのすべてを受け入れたのでしょう。 すなわち、「尊王」と「攘夷」を超越して、神仏習合「因果応報天道地獄」から、かく「国のありよう」をと、そして「神」人を憐れみ、「人」他者を憐れむ聖神、その深淵なる教理の探求への渦へ、自からを投じたのでした。 しかしそれは、悲劇のまくの始まりでした、「耶蘇」に狂った神主に氏子は離れていきましたし、親類縁者は流れ者めと唾棄し、暮らし向きは困窮の極になります。 さらに、はるか南から邪悪な黒雲が北へと迫ります、それはあの忌まわしい「浦上四番崩れ」でした。
開港、その箱館は 幕府は松前藩以外の地域を再直轄地として、 嘉永7年(1854年)6月30日箱館奉行所を設置し奉行「竹内保徳」「堀利煕」は同年着任しました。 安政2年(1855年)6月15日、老中「阿部正弘」より「禁教令」強化の指示がありましたが、奉行は「ここ蝦夷地は、アイヌと和人の雑居地で、渡来和人の「宗門人別帳」すら不備であり、宗門改めは不可能で「踏絵」の効果は期待できない」と返答、これについて「老中」は「箱館・下田の踏絵は無用」としましたので、「箱館奉行所」は「禁教令」についての執行は希薄だったのでしょう。 また、開港地「箱館」は、 安政3年(1856年)「弁天台場」予算10万両、 安政4年(1857年)「五稜郭」予算20万両、 安政6年(1859年)「大町埋立て」5455両、 安政6年(1859年)「願乗寺川」7300両、 の大型土木工事が続き、「五稜郭」築城には人足数千人とも言われ、この「開港景気」の新天地に、諸藩から海峡を渡った人達は、逼塞した藩体制や封建的しがらみ環境から、この地で開放され、「澤邊」もその1人でした。 そして、開港により、 安政4年(1857年)にはアメリカ貿易事務官ライスが、 安政5年(1858年)にはロシア領事ゴシケーヴィチが、 安政6年(1859年)にはイギリス領事兼フランス領事がフランス人宣教師(メルメ・カション神父)を伴なって着任し、 文久元年(1861年)3代目の領事館付司祭として「ニコライ」も赴任して、国旗を掲揚した領事館群が異国風情をかもしだしていました。 逃亡浪士「山本琢磨」・・・北へ走る 幼名「山本数馬」、天保6年(1835年)土佐藩の下士「山本代七」の長男に生まれ、長じて「山本琢磨」として江戸藩邸に詰めながら、「鏡心明智流・桜井道場」の師範代となるが、 安政4年(1857年)8月、同門「板橋藩士・田耶村作八」と飲酒して、古道具商「佐川屋金蔵」からの「金時計強奪と換金未遂」が発覚して、武市半平太と坂本龍馬の知るところになり、土佐藩上士の「切腹」をも含む制裁を予想して。 安政4年(1857年)8月16日の夜、江戸浜松の土佐藩邸から逃亡します、22才でした。 「鏡心明智流」の筋をたより、宇都宮・白河・仙台・会津・米沢を流浪して、天領の越後弥彦(新潟県西蒲原郡)の侠客で、越後と長野「善光寺」までの縄張りをもち、「国定忠治・大前田英五郎・清水次郎長」とも付き合いがあって、「与板藩」の用人格であり、かつては江戸千葉道場では「坂本龍馬」と同門の「松宮雄次郎」が持つ道場に、剣術の稽古をしながら、めし炊き男として寄宿しました。 ここで、藩命によって翌年、箱館奉行「竹内・堀」の建議により、 捕縛の危険を感じていた3名は「酒井の妻エイと長女スミ」と「澤邊の下男の退蔵」を伴ない、旅籠「丸仙」がひそかに手配をしてくれた小船に乗り、「戊辰の役」続く彼の地への逃避行は試練へ向かう旅となって、「しょっぱい川」なる流れざわめく海峡を渡ってゆきました。
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