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新島襄の55日
神主「澤部」
神主「澤部」その後


 

 

  
   北海道のあれこれ 編 

   
開国を待ちきれずに密出国を企てた男がいた・・・・新島 襄・・・・22才
    脱国に加担した4人の男達(めぐり逢った順)
1人目 武田塾塾頭    長岡藩士          菅沼 精一郎
2人目 ロシア領事館付  修道司祭          ニコライ・カサートキン
3人目 逃亡浪士      箱館神明社 宮司   澤邊 琢磨(たくま)
4人目 アレクサンダー・ポーター商会 通訳       福士 卯之吉(うのきち


  まわる綾なす糸つぐみ、55日のカウント・ダウン、

  3人目 逃亡浪士      箱館神明社 宮司  澤邊 琢磨(たくま)

 5月 8日、午後、「菅沼」の親友で、ロシア領事館員へ剣術指南をしている神明社の神主「澤邊数馬」が尋ねて来て、この人とも天下・国家を談じて親友になりました。

 5月16日、朝5時、「快風丸」サハリンへ向け出航、「塩田寅男」(備中松山藩士・快風丸乗組員)は療養のため残留しました。
   その「澤邊」は「アレクサンダー・ポーター商会」の通訳「福士卯之吉」を紹介します。
 「福士」は、雇い主の了解を得て、「ポーター商会」が荷主契約をしていたアメリカ商船「ベルリン号」の船長「T・W・セイヴォリー」に頼みます。

 6月12日、「ポーター商会」で「セイヴォリー船長」と会い乗船の条件は、本船までは本人の自力で来る事との内諾を得ました。

 6月14日、[宇之吉」より「準備をなし夜に入りて来たれ」と伝えられますが、ロシア領事館の「ニコライ」は不在で、短い礼状を残して領事館を後にします。

      鷹が翔び・鯨汐吹く・・・箱館湾、
 
その夜、「菅沼」「澤邊」と別れの杯を交わし、「澤邊」宅から案内の「塩田」の従僕に変装して「ポーター商会」へむかい、「福士」の慎重な采配で危機を免れ、沖どまりの「ベルリン号」に脱国者として乗り込みました。
 元治元年六月拾四日「富士屋宇之吉の周旋に依而、此夜九時過密かに、宇之吉と共に小船に乗船し、米利堅商船に乗得たり」と記録しています。

 6月15日、夜明けを待って出港した船上で書いた日記には「アメリカ船に乗って箱館港を出帆す、澤邊・富士屋(福士)の周旋に依しこの行を得たり、この二友、骨に徹し忘るべからず」と記しました。

     「山本琢磨」変名す。
 
 明治7年「山上大神宮」と改称、昭和7年に現社殿となり、「夜泣き石」なる伝承があった。

 旧ロシア領事館が右下にあり、函館で一番長い幸坂(さいわいざか)は西埠頭まで一直線に続く。
 万延元年(1860年)25歳で養子となり、名は「澤邊数馬幸高」。8代目の宮司で、正月6日の箱館奉行所への年始には、箱館八幡神主・亀田八幡神主・有川神明神主・と共に「神明社司・澤邊數馬」と記録されている。

 明治41年に建てられた、旧ロシア領事館

 
 ロシア領事ゴシケーヴィチは、妻エリザヴェータの連れ子ヴラヂーミルに日本の剣道を学ばせたいと考えていて、「澤邊」を領事館の雇人として箱館奉行所へ申告して、
 元冶元年(1864年)領事館員への剣術指南役になりました。

 
   「ニコライ」との出会い
 「新島」を脱国させた1年後の慶応元年(1865年)、かねてより領事館敷地内で、巨漢で黒のワンピース姿の僧らしき男に不審を感じ、腰に大小を帯び「尊王」を「邪教」をもって害たらんとする「ニコライ」に、天誅をもって「攘夷」せんと、語気荒く詰め寄ったようです。諸書には晩年の「澤邊」が語ったとする逸話を引用していますが、ここでは別の展開をします

 「亜使徒日本の大主教聖ニコライ」が若き日に、その心血をそそいだ祈祷文は、今もハリストス正教会の現行祈祷書「大連祷」にあります。
 (抜粋)、「我等安和にして主に祈らん、上より降る安和と我等が霊の救いの為に主に祈らん「我が国の天皇及び国を司る者の為に主に祈らん」〜「気候順和、五穀豊穣、天下泰平の為に主に祈らん、航海する者、旅行する者、病を患うる者、艱難に遭う者、虜となりし者、及び彼等の救いの為に主に祈らん」と。

 この「神の基、人すべて平等なり」をもって諭された「澤邊」は、まさしくその時人としての転機と捉えて、そのすべてを受け入れたのでしょう。
 すなわち、「尊王」と「攘夷」を超越して、神仏習合「因果応報天道地獄」から、かく「国のありよう」をと、そして「神」人を憐れみ、「人」他者を憐れむ聖神、その深淵なる教理の探求への渦へ、自からを投じたのでした。

 しかしそれは、悲劇のまくの始まりでした、「耶蘇」に狂った神主に氏子は離れていきましたし、親類縁者は流れ者めと唾棄し、暮らし向きは困窮の極になります。
 義父「悌之助」はすでに没しており、妻「友子」は重圧に耐えきれず、刹那的に居宅に放火するほどで、義母と息子「悌太郎」は悲嘆の底へ沈みました。

 さらに、はるか南から邪悪な黒雲が北へと迫ります、それはあの忌まわしい「浦上四番崩れ」でした。
 かつてこの地でも、松前七代藩主によって寛永16年(1639年)砂金採りに紛れ込んだ、隠れキリシタンで棄教しない信徒は「大千軒岳金山番所」で50人、松前大沢で50人、上ノ国石崎で6人が処刑されましたが、その再来の牙は海峡を渡る鳥たちに寄生して「澤邊」に迫りつつありました。

「浦上崩れと蝦夷キリシタン殉難記」準備中
            
    
     開港、その箱館は 
 幕府は松前藩以外の地域を再直轄地として、
 嘉永7年(1854年)6月30日箱館奉行所を設置し奉行「竹内保徳」「堀利煕」は同年着任しました。

 安政2年(1855年)6月15日、老中「阿部正弘」より「禁教令」強化の指示がありましたが、奉行は「ここ蝦夷地は、アイヌと和人の雑居地で、渡来和人の「宗門人別帳」すら不備であり、宗門改めは不可能で「踏絵」の効果は期待できない」と返答、これについて「老中」は「箱館・下田の踏絵は無用」としましたので、「箱館奉行所」は「禁教令」についての執行は希薄だったのでしょう。

 また、開港地「箱館」は、
 安政3年(1856年)「弁天台場」予算10万両、
 安政4年(1857年)「五稜郭」予算20万両、
 安政6年(1859年)「大町埋立て」5455両、
 安政6年(1859年)「願乗寺川」7300両、
 の大型土木工事が続き、「五稜郭」築城には人足数千人とも言われ、この「開港景気」の新天地に、諸藩から海峡を渡った人達は、逼塞した藩体制や封建的しがらみ環境から、この地で開放され、「澤邊」もその1人でした。

 そして、開港により、
 安政4年(1857年)にはアメリカ貿易事務官ライスが、
 安政5年(1858年)にはロシア領事ゴシケーヴィチが、
 安政6年(1859年)にはイギリス領事兼フランス領事がフランス人宣教師(メルメ・カション神父)を伴なって着任し、
 文久元年(1861年)3代目の領事館付司祭として「ニコライ」も赴任して、国旗を掲揚した領事館群が異国風情をかもしだしていました。

     逃亡浪士「山本琢磨」・・・北へ走る
 幼名「山本数馬」、天保6年(1835年)土佐藩の下士「山本代七」の長男に生まれ、長じて「山本琢磨」として江戸藩邸に詰めながら、「鏡心明智流・桜井道場」の師範代となるが、
 安政4年(1857年)8月、同門「板橋藩士・田耶村作八」と飲酒して、古道具商「佐川屋金蔵」からの「金時計強奪と換金未遂」が発覚して、武市半平太と坂本龍馬の知るところになり、土佐藩上士の「切腹」をも含む制裁を予想して。
 安政4年(1857年)8月16日の夜、江戸浜松の土佐藩邸から逃亡します、22才でした。

 「鏡心明智流」の筋をたより、宇都宮・白河・仙台・会津・米沢を流浪して、天領の越後弥彦(新潟県西蒲原郡)の侠客で、越後と長野「善光寺」までの縄張りをもち、「国定忠治・大前田英五郎・清水次郎長」とも付き合いがあって、「与板藩」の用人格であり、かつては江戸千葉道場では「坂本龍馬」と同門の「松宮雄次郎」が持つ道場に、剣術の稽古をしながら、めし炊き男として寄宿しました。

 ここで、藩命によって翌年、箱館奉行「竹内・堀」の建議により、
 安政3年(1856年)8月開校した、佐久間象山の弟子である武田斐三郎を,教授とする「諸術調所」(しょじゅつしらべしょ)に入所しようとしている「前島密」と運命的な出会いをしました。
 安政5年(1858年)、すすめられて共に荷物船に便乗して、冬の海峡を渡ります。

 そして、投宿した旅籠「丸仙」で3人の押込み強盗を撃退して一躍有名人になり、しかも支援を得て武道館を建てもらって剣術家となり、それにもまして「神主」として生涯を尊敬される身になりながらも、そのすべてを捨てて「ニコライ」のしもべに回心したのでした。

 幕末の「切支丹禁教」の時代にありながら、「踏み絵」を迫らない奉行所と領事館が醸し出す異文化への興味感は、「邪教」だの「耶蘇」と言いながらキリスト教をも受容する雰囲気をもつ開明都市になっていたのでした。

 慶応3年(1867年)7月頃に到着した、「カトリック」系でパリ外国宣教会の「ムニクー」と「アルムブリュステル」両宣教士は、街を歩いて祈祷書を朗読し、人々に教会への来訪を呼びかける宣教活動を公然と行っていました。

 このような状況を一変する事件「浦上四番崩れ」が勃発しました、幕府はこの隠れキリシタンを捕縛しますが、「大政奉還」による「新政府」も従来の幕策を踏襲して、
 慶応4年3月15日(1868年4月7日)箱館奉行所は、高札・五榜の掲示を出しました。
そしてそのなかの第三項で「切支丹邪宗門厳禁」として「禁教」の高札を掲示して、摘発を開始したのでした。

     受洗者「澤邊琢磨」・・・南へ潜行す
 ことの経緯と外交問題への懸念を領事から告げられた「ニコライ」は、摘発を警戒して、
 慶応4年閏4月9日(1868年5月30日)深夜、聖堂ではなく「ニコライ」の居室において、ひそかに啓蒙者3名を洗礼して、澤邊にはパウェル・・酒井にはイオアン・・浦野にはイヤコフの聖名を与え、現下の厳しい状況を伝えました。

 捕縛の危険を感じていた3名は「酒井の妻エイと長女スミ」と「澤邊の下男の退蔵」を伴ない、旅籠「丸仙」がひそかに手配をしてくれた小船に乗り、「戊辰の役」続く彼の地への逃避行は試練へ向かう旅となって、「しょっぱい川」なる流れざわめく海峡を渡ってゆきました。

「澤邊琢磨、その後」へ続く
 
 

 

 

 

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