|
◆ 蝦夷が島の物語 編 ◆
・・義経北行伝説・・蝦夷地バージョン・・
-
●近藤重蔵・判官義経になる。
近藤重蔵その名は守重、号を正斎というが「ただ者・くせ者」を1セットにした人物らしい。
明和8(1771)年江戸駒込に幕府御先手組与力の三男として、あの「ほら吹き野郎」がやって来た年に生まれたのだから、そもそも怪しい。
幼少より神童といわれ、長じて最難関の幕府学問吟味試験に合格した3人の内であったから、やっぱり、ただ者ではない。
寛政7(1795)年、先手組与力から長崎奉行所へ、のち支配勘定方そして蝦夷地御用取扱となる。
ところが、頼朝の追手から落ち延びたと伝わる、義経北行伝説の北海道版にチャメッケよろしく登場する。
寛政10(1798)年7月28日、エトロフ島タンネモイ(丹根萌)近くのリコツフに、大
日本恵登呂府と書いた標柱を建て領有宣言したあと、日高の地に立ち寄ったときに、アイヌが義経を崇拝していることを知って、翌年義経像を寄進して祀らせたと・・ここまでは良いのだ・・。
ところが、その神像に「寛政11年4月28日・近藤重蔵藤原守重」と刻んだこの月は、義経が平泉の高館(たかだち)から脱出したとする伝説の月であり、しかも神像自体を近藤自身の姿に模して造らせたのだから、これは偶然とはおもえない。
しかもまだある。
寛政11(1799)年正月の末、エトロフ島からの帰りに森村(戊辰戦争で榎本軍が上陸した地・・鷲の木・・)に一泊したとき、一株の木表を作って与えた。
村人は、その木牌を神のごとく尊敬して参拝し、役人などの往来も多くなって村が繁盛したのは、「森村が茂る・・もりしげ&守重・・もりしげ、」その御利益だと、ありがたく祀っていた。
ここでは、とうとう神になった、よって、これは曲者だろう。
あじをしめたか、晩年江戸に住んで、自分の石像を祀ったのを、幕府に不遜と咎められたけども、これは何者になるか?
文政12(1829)年6月病をえて享年59で、また最上徳内は天保7(1836)年9月江戸に享年82で、没したこの二人は、共に明治44年9月5日蝦夷地開拓の功を賞されて正五位を賜っている。
●イザベラ・バードが来た。
近藤重蔵が蝦夷地で活躍したその100年後、森村(現森町、もりまち)に外人女性がやってきた。
その名、イザベラ・バード(イザベラ・ルーシー・バード、1831年10月イングランド生れ)
イギリスの女性旅行家・紀行作家で明治11(1878)年6月に来日し、東北地方や北海道、関西などを旅行して、明治期の日本を5回訪れた。
北海道の旅は、8月17日(土)函館を出発して同夜はじゅん菜沼で一泊、8月18日(日)と翌19日(月)には森村の駅逓所・阿部旅館(阿部重吉家)に連泊した(後に明治天皇が巡幸時に泊まる宿)。
8月20日(火)午後の便で森発、桟橋から二艘の艀(はしけ)で多数の日本人と共に乗船。
「汽船だぁ」という叫び声と「船は一分も待ってくれんぞー」という報せが、<碁>やその他いろんなことをしていた者の耳に飛び込んできた二艘の艀をいっぱいにした多くの日本人とともに汽船にのりこんだ。
申し分のない晴天に恵まれた。実に美しい真っ青の海にさざ波が白く立ち、湾[噴火湾]の南端を占める火山[駒ケ岳]から立ち上る赤い火山灰が、陽光の下で光っていた」。
イザベラ・バード著『日本奥地紀行3』
この桟橋は、函館から札幌への道路として、途中の森ー室蘭を海路とするために、明治5年に建設が始まり、明治6(1873)年11月に完成、長さ255m幅6.3m、防腐剤として付近のアスファルトを用いた。
函館で雇った通訳兼従者イト(伊藤鶴吉・月12ドル)と共に、汽船に乗って室蘭へ渡り、アイヌの平取集落を目指して、白老、苫小牧、門別、有珠、長万部、函館、576キロを踏破して帰函し、9月14日(土)横浜へ向かった。
当時の「開拓使」はかなりの便宜をはかった様子や、アイヌの生活模様とを興味ぶかく描いている。
森村での連泊のようす。
「昨晩[8月18日]この宿は本当にやかましかった、隣部屋の泊まり客数人が<芸者>を揚げて朝の2時まで戯れ、歌ったり踊ったりし、全員が<酒>をあおっていたのである」。
重蔵が宿泊した100年後、森村は交通の要所になっており、宿屋は何軒かがあって、芸者は居るし多数の女郎屋があったようなので、この村は立派に繁盛しており、与えた木牌の御利益は益々成就した訳だから・・重蔵の神威恐るべし・・
●義経北行伝説もう1弾。
かつてアイヌがキムン・トー(山の湖)とよんでいた湖に、昭和の初めころから伝承が語られ始めていたらしいのだ。
昭和の戦後、国立公園・洞爺湖湖畔から奥にある滝に、突如一枚の板がたてられて、
まっこと新らしい「義経北行伝説・キムンドの滝バージョン」が誕生した。
今では遊歩道も造られて、メジャーな伝承話に育っている。
新北行伝説「キムンドの滝」・・「洞爺湖の中島にキムンドという満州人の酋長がいて、大陸へ渡ろうとした義経一党は、彼に話を聞こうとしてこの滝で待機したが、キムンドは会おうとしない、やむなくオキクルミカムイ(アイヌの英雄神)を求めて日高へむかい、情報を得てやがて満州へ渡った」。
補足・・北海道には110程の北行伝説地があるようだが、北行伝説の多くは「この地へやって来た、又は、やって来て」なので、その先の目的地を明確にする伝承は珍しい。
満州人酋長配下のアイヌが、ここから義経一党を日高にまで道案内したのか ?。
昭和33(1958)年に刊行された、高木彬光によるの『成吉思汗の秘密』での推理は。
奥州衣川で非業の死を遂げた源義経、モンゴル帝国を築いたジンギスカン、
二人は同一人物だった。
高木彬光がジンギス汗にしてしまったのだから、キムンドの滝の話はとは、どっちが先なのか、なにやらキナ臭くて面白そうだが、まあその詮索はよしにしよう。
●義経ジンギスカンとシーボルト。
ところが、とんでもない先輩がいたもんで、その名は「フィリップ・フランツ・フオン・シーボルト」長崎オランダ商館の外科医師でドイツ人。 |
|