◆ 北海道のあれこれ 編 ◆
新島襄・・・箱館から翔いた男がいた・・・
同志社英学校(現同志社大学)を創設した新島襄は、元冶元年(1864年)6月14日夜、箱館在住の澤邊琢磨と福士卯之吉の支援を得て、大町築島(外国人居留地)から箱館湾に停泊するアメリカ商船「ベルリン号」に乗り込み、22歳にして国禁を犯して密出国し、上海に渡って翌年アメリカのボストンに着きました。
名は「新島敬幹(けいかん)、幼名七五三太(しめた)」、航海中に船長から「Joe」ジョーの名前をもらい、帰国後「襄」の字をあてたそうです。
{*じつはこの「ジョセフ」が解からないのです、旧約ヨセフか、新約ナザレのヨセフなのか、どなたか教えてください*}
「青年よ大志をいだけ」で有名なお雇い外人であるクラーク博士の、札幌農学校(現北海道大学)への招聘には、新島襄の働きがあったのでした。
では、脱国までの経緯を追って見ましょう。
うまれ、そして世界は、
天保14年(1843年)1月14日、上州(群馬県安中市)安中藩板倉家の江戸屋敷詰をしていた「新島民治」の嫡男として生まれ、4人の姉がおり翌年には次男が生まれました。
時は十二代将軍家慶の時代で、アヘン戦争(1840〜42年)が終わり、つぎは日本とばかりに列国の船が頻繁に出没しはじめました。
天保13年(1842年)「異国船打払令」を緩和して、漂着した異国船には食料・薪水を給与して後退去させるを旨とし、列国への伝達をオランダ商館へ依頼。
弘化元年(1844年)オランダ国王の「開国勧告」の親書を持った使節が長崎に来航しますが、幕府はその緩和策でしのごうと、翌年この勧告を拒絶。
嘉永 5年(1852年)オランダはアメリカの砲艦外交としての艦船の来航を予告。
嘉永 6年(1853年)アメリカ東インド艦隊ペリー代将が浦賀沖に来航。
嘉永 7年(1854年)安政元年・米・英・魯・和親条約(神奈川条約)箱館・下田を開港。
安政 6年(1859年)箱館・横浜・長崎の3港を開港し、自由貿易開始。
「聖書」との邂逅、 洋式帆船1万8、000ドル、
安政4年に元服し、安政6年1月17歳で「御徒組徐」にて金4両2分一人扶持御広間平番として出仕しました。
万延元年(1860年)18歳、勝海舟が教授方頭取の軍艦教授所で航海術を学び、「武田斐三郎」の講義を聞き、「ジョン万次郎」からはアメリカの様子を直接聞いて、大きな感化を受けたようです。
又、松前藩奉行を経て、安中藩に召抱えられた学者「山田三川(さんせん)」からは、箱館の情報も得ていたのでしょう。
文久2年(1862年)11月、本家の備中松山藩がアメリカから購入した「快風丸(かいかぜまる)155トン」に乗組んで、江戸から備中玉島(倉敷)間往復の実習航海を経験しました。
長崎留学を終えた友人の「菅沼総蔵」を訪ねて、諸外国の根源はキリスト教にあることを聞かされ、持ち帰ったアメリカ人の宣教師が漢訳した「抄訳聖書」を借り受けて、初めて聖書に接します。
回航航海の1年後、入塾している「川勝塾」で航海書の解からない所について、「ジョン万次郎」へ訪ねる途中、同乗していた備中松山藩の家臣「加納・柏原」両名から、「快風丸」による箱館にも寄航する「サハリン」への交易航海へさそわれます。
”しめた”とばかりに、箱館五稜郭の設計者である「武田斐三郎」の武田塾への入塾を、上役に口添えをしてもらって、藩の承諾を得ることが出来ました。
安中藩から1年間の箱館遊学費としての15両と、
川勝塾の塾頭「川勝光之助」・塾生「鈴木熊男(松前藩)」・塾生「邑尾四郎(松前藩)」
「快風丸」回航時の「飯田大助」「飯田逸之助」「白井福蔵」「植村おまき」「速水おとき」
そして「田辺潤之助」「市原利八」からの餞別10両とを懐にして。
元治元年(1864年)3月12日(予定日11日)品川沖を出帆し、太平洋側の港に寄港しながら航海日誌を記載して、箱館湾到着は4月21日暁5時、22歳の春でした。
「快風丸」は沖の口番所で手続きをし、運上役所前に入港します、船からは函館山山麓に4500坪の敷地に箱館奉行所と諸術調所がみえて、奉行所の左方向には、アメリカ・イギリス・ロシアの領事館群、右方向には「澤邊琢磨」の神明社がみえたでしょう。
その日の午後上陸して、築島近くの船宿「讃岐屋」に投宿しました。
かくして、脱国への糸車が回り始めます。
まわる綾なす糸つぐみ、55日のカウント・ダウン、
4月25日、武田塾へ行き、友人の「木村隆吉」(桜藩)と「田中茂幸木」(会藩)の行方を尋ねますが、二人とも在箱せず落胆します、とくに「田中」には「英商デウスの家に通い、英語を教わっているので、彼を頼って英国へ行こう」との期待空しく帰ります。
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パワースポットで人気、顔が光っている。 |
4月26日 、幕府が開設した、洋術学校「諸術調所」の付属施設である「武田塾(箱府考芸館)」をたずねて入塾しようとしますが、「武田斐三郎」は「箱館五稜郭」の完成により、すでに江戸「開成所」へ転任しており、塾は消滅状態でした。
しかも、「塾生は4〜5人で、そのための「めしたき男」を雇えなく、食事は各自がまかなう」と言われ、江戸出発時の大金25両は寄港地の色街で、酒色に溺れて散財してしまい、残りの手持金が1両2分ではなんとも心細くて、しかたなく「余西洋人の家に至らん事を企てり」と当てもないのに考えました。
4月28日、再度「武田塾」を訪ね、塾頭にしてロシア領事館の通訳でもある「菅沼精一郎」に面談を要請しました。
彼はそれに応え、「葦屋」なる料理屋で酌婦2人を呼んで酒盛りをして、天下・国家を談じ合い意気投合しました、そして、「西洋人の家に食客たらん」と切り出します。
「菅沼」は、ロシア領事館が付属聖堂付司祭「ニコライ」への日本語教師の後任を探していることを話しました。
そして、渡りに船とばかりに、窮乏を訴えて「予意を決し其家に至らん事を頼めり」と請願します。
5月 3日、「菅沼氏我旅舎讃岐屋迄尋呉れ、予を導き彼僧官の家に至らしめ」より「ニコライ」と面談し、明日行李を持来ると、話はまとまりました。
5月 4日、「快風丸」についての相談に終日加わりました。
5月 5日、夜6時ころ到着して、「ニコライ」に10畳程の居室をもらい住み込みをはじめ、館員の「ピレルーヒン」から英語を教わり、領事館付属病院で院長「ザレスキイ」から眼の治療をうけて、脱国までの40日間を、ロシア領事館の敷地内に滞在しました。
5月 8日、「今日よりニコライと共に古事記を読始めり」と「函楯紀行」にあります。
(ニコライは1869年9月、論文「キリスト教宣教団から見た日本」を「ロシア報知」に発表します、それにはイザナギ・イザナミの「古事記」の内容が紹介されており、新島との勉強の成果でした)
また「魯西亜人ニコライと申大学者の家へ寄宿し〜毎夜いろいろの話をし、外国の様子など教えてもらっている」と父新島民治へ書き送っています。
午後、「菅沼」の親友で、ロシア領事館員へ剣術指南をしている神明社の神主「澤邊数馬」が尋ねて来て、この人とも天下・国家を談じて親友になりました。
5月16日、朝5時、「快風丸」サハリンへ向け出航、「塩田寅男」(備中松山藩士・快風丸乗組員)は療養のため残留しました。
5月24日、「ニコライ」に脱国の意図を打ち明けますが、領事「ゴシケーヴィチ」は、かつて、1854年「下田」にて、大地震と津波によって大破した「ディアナ号」のロシア使節団500人の帰還のさい、その第三船に「橘耕斎」を樽詰めにして脱国をさせましたが、今回は同意をしませんでした。
では、この「脱国の意図」は・・・
「ニコライに寄スルノ書」(書き下し)元冶元年5月24日付(途中〜にて省略)
「〜しかして、日本にて「クライスト」教を学ばんには極めてかたかるべし〜故にひそかに欧羅巴へ抜き行き〜去ながら欧羅巴へ参り学問いたすべき用意の金は更に無之候故。
途中にては船のマドロス、彼地に参り候得ば「クライスト」教学校の小使となりてもくるしからず、且つ私学問の為めとして、欧羅巴へ参り得べき工夫はいかがいたして宣しきか、臥し而奉伺候」と。
その「澤邊」は「アレクサンダー・ポーター商会」の通訳「福士卯之吉」を紹介します。
「福士」は、雇い主の了解を得て、「ポーター商会」が荷主契約をしていたアメリカ商船「ベルリン号」の船長「T・W・セイヴォリー」に頼みます。
6月12日、「ポーター商会」で「セイヴォリー船長」と会い乗船の条件は、本船までは本人の自力で来る事との内諾を得ました。
6月14日、[宇之吉」より「準備をなし夜に入りて来たれ」と伝えられますが、ロシア領事館の「ニコライ」は不在で、短い礼状を残して領事館を後にします。
鷹が翔び・鯨汐吹く・・・箱館湾、
その夜、「菅沼」「澤邊」と別れの杯を交わし、「澤邊」宅から案内の「塩田」の従僕に変装して「ポーター商会」へ向い、「福士」の慎重な采配で危機を免れて、沖どまりの「ベルリン号」に脱国者として乗り込みました。
元治元年六月拾四日「富士屋宇之吉の周旋に依而、此夜九時過密かに、宇之吉と共に小船に乗船し、米利堅商船に乗得たり」と記録しています。
6月15日、夜明けを待って出港した船上で書いた日記には、「アメリカ船に乗って箱館港を出帆す、澤邊・富士屋(福士)の周旋に依しこの行を得たり、この二友、骨に徹し忘るべからず」と記しました。
鵬の翼を借りて海峡を翔渡り、見果てぬ夢を追い求めた「Joe」を、
「函館びと」は今も忘れずにいます。
そして、国禁と極刑の狭間にありながら、
加担した函館の男達を誇りにしています。
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揮毫「義貞号」本名「宮腰善行」篆刻家、函館市在住。
秋田県能代市鶴形出身。
昭和2年11月10日生まれ。
「函館
新島襄 パトスの会」前会長。 |
函館市大町にある「新島襄海外渡航の地碑」には漢詩「男児決志」が刻まれています。
この漢詩は、慶応元年(1865年)に香港にて詠んだ詩です。
男 児 決 志
(だんじけっし) |
男児決志馳千里 |
自嘗苦辛豈思家 |
却笑春風吹雨夜 |
枕頭尚夢故園荘 |
( 意 ) |
男児志を決して千里を馳す |
自ら苦辛を嘗(なめ)て豈(あに)家を思う |
却って笑う春風雨を吹くの夜 |
沈頭尚夢む故園の花 |
← 左の写真はその漢詩を、函館の著名な篆刻家である「宮腰善行」氏が篆刻した作品です。
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函館のブロンズ像 |
箱館渡航の地碑 |
緑の島へは「新島橋」 |
快風丸の復元模型 |
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