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「澤部琢磨」みちのく潜行


 

 

  
   北海道のあれこれ 編 

箱館戦争を見たくて、海峡を渡った男達

        縁もゆかりもない榎本軍3千人、よろこんだ者は誰もいない。

 澤邊 琢磨(みちのく潜行) 義経北行伝説「盛街道」を往く
 西郷 頼母

会津藩家老、「奈与竹」の旅

 金成 善右衛門 仙台藩「回天隊」隊長
 松岡 盤吉 榎本艦隊「蟠龍」咆哮す
             1年6ケ月に及ぶ攻防戦は海峡を渡って、戊辰戦争最後のいくさばとなった

「澤邊琢磨」みちのく潜行

 慶応4年閏4月9日(1868年5月30日)密かに洗礼を受けて、日本ハリストス正教会の最初の信徒になり(後に日本人最初の神父になる)、ニコライが持たせてくれた和綴じ本を身に結び、さかまく波は泡となって風に散り、踊る船べりにしがみついて、もうろうとした闇のなかに何かをみたでしょうか。

    「聖書」は問いかけます。
 ”イエスは5000人に、5つのパンと2ひきの魚で満腹させた”その後、イエスは群集を解散させ、弟子たちを船に乗り込ませて対岸へ渡らせますが、逆風の波に悩まされていました。

 祈りを終えたイエスは夜明けの4時ごろ、海の上を歩いてペテロ達の船へ近づきます。ペテロはおどろいてイエスに「わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と。

 イエスは「さあ、くるがよいペテロ」とはげまします。しかし強き風に恐れをなし、おぼれかけて「主よお助けください」と救いを求めます。イエスは手を伸ばし「信仰の薄い者よ、なぜ私を疑ったのか」と問いかけて海はおだやかになりました。

 風はやんで、弟子たちはイエスを拝して「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
       (マタイによる福音書第14章・・・要約・・・)

 波と風にもまれて、海峡を3日間漂流して、薄もやの中にやっと下北半島の岬を目にします。

 本州の南端で隠れていたキリスト教徒が現れる一方で、北端では新しいキリスト教徒が、その土を踏もうとしていて、それは大浦の天主堂に浦上のキリシタンが姿を現した3年後のことで、澤邊は33才でした。

 五戸までは6人と共に行き、酒井篤礼の家族は故郷の宮城県金成へ向かい、下男の退蔵とも別れて、落馬して怪我を負って知人を頼ろうとする浦野大蔵を介抱しながら、宮古の近くの金浜村へたどりつきました。

 そこに身を潜め「潜行しつつある身なれば、一度も宮古の市街に出ることはなかった」と語っています。

 知人の情けを借りて療養をする浦野をのこして、江戸を目指して遠野街道を南下したようです。

    「宮さん宮さん、お馬の前に、ひらひらするのは、何んじゃいな」
 慶応3年10月14日(1867年11月9日)徳川慶喜の大政奉還により、
 慶応3年12月 9日(1868年 1月3日)王政復古の大号令の直後に発生した鳥羽・伏見の戦いから、上野彰義隊・関東・北越・東北を経て、函館戦争に至る1年6ケ月にわたる戊辰戦争の戦費については。
 新政府は「太政官札」という、不換政府紙幣発行による造幣益で賄おうとします。

京都「仁和寺」のさくら

 京都の仁和寺を本山とする、真言宗御室(おむろ)派の門跡(住職)は、環俗して「仁和寺宮喜彰親王」と改めて、新政府の軍事総裁に就きました。
 そして、戦費調達のために末寺を長谷寺派に売却するかたちで捻出したのです。

 「宮さん宮さん〜」の歌で、錦(にしき)の御旗(みはた)を掲げる総大将はこの人です。

 また、浄土真宗はかつて、大坂で織田信長と戦いその後和睦しましたが、その和議の是非をめぐって東西に分裂しました。その後東本願寺派は幕府とは親密な関係にありましたが、動きはじめた時勢に取り残されまいと、鳥羽・伏見の戦には一万両余を幕府討伐のために供出します。
 
 さらに、東本願寺第21代法主「厳如」は、自から東本願寺派の門徒衆に軍資の募集の途につき、二万四千両と米三万九千俵を集めて献納しました。
 こうして、神社仏閣は新政府に金銭のみならず、物資や人員をも提供したのでした。

 しかし、澤邊が行こうとする土地の末寺は、新政府への反意を持つ在地藩にあり、かつて「平重盛」が号泣したごとく「忠ならんと欲せば孝ならず〜」の板挟みに苦悩したのでしょう。

 しかもこの時、後に廃仏毀釈運動につながる、神仏分離令の太政官令が出されて、千年以上の永きに続いた神仏習合は、仏教の伝来を攘夷とする国学思想に呑み込まれようとしていたのです。
  神仏分離令の正式名は神仏判然令で、慶応4年3月13日(1868年4月5日)から治元年10月18日(1868年12月1日)までの、太政官布告などの総称

    「新撰組」の雇い主、会津藩は朝敵とさる。
 慶応4年3月13日よりの、薩摩藩邸で勝海舟との「江戸城総攻撃の中止・無血開城・慶喜の水戸への隠居」の合意をもって、西郷隆盛は急ぎ京都へ戻り、新政府の朝議で江戸城開城の段取りと、会津・庄内藩を征討の対象藩として、抗戦した場合は討伐することと決定しました。

 慶応4年4月11日新政府軍は江戸城に入城しましたが、それに先立つ慶応4年3月23日(1868年4月15日)には、仙台に奥羽鎮撫総督「九条道孝」を送り込み、東北越諸藩に会津・庄内藩への軍事制裁を命じました。

 各藩は表向きには命令に従って藩兵を派遣していましたが、しかし会津・庄内藩を討伐する理由を見つけ出せずにいます。

 そして、討伐を睥睨して強要する言動への不快感は「奥羽皆敵」の密書の発覚にいたって、ついに4月20日鎮撫総督参謀「世良修蔵」の謀殺となって一挙にふきだし、奥羽越31藩による「奥羽越列藩同盟」の成立へと追い込んでしまい、新政府は失政の汚点を残しました。
 薩長が主導する新政府は、東北の諸藩どうしを反目敵対させて、積年の怨念をぬれ手に粟を晴らそうとした思惑は、駒使いの失策によって破綻し、泥沼のいくさ場にしてしまったのです。

松前藩

弘前藩

秋田藩

盛岡藩

仙台藩

会津藩

米沢藩

庄内藩

新政府方

反政府方

 新政府軍、そして新政府に寝返った藩と反政府藩、宗門の本山と末寺、神道と仏教とが、腹をさぐる諜報の舞台と化して、禁教の二文字を背にした「澤邊」は、早駕籠・早馬と虚無僧や山伏姿の密偵が暗躍する渦の中へ踏み込もうとしていたのでした。

     澤邊・・・義経伝説を往く。

平泉 高館(たかだち) 義経堂

 かつて、平泉の高館では自害せず蝦夷地へ渡ったとする、義経の北行伝説の道筋である、奥州街道の脇街道であった現在の盛街道を辿ったようで、その様子が残されています。

 盛街道の宿場「水沢」では、仙台藩水沢城の奥小姓として出仕していた、後に東京市長となる「後藤新平」が11才の頃、友人と共に「切支丹宗の一先生」からキリスト教を学んだと、その時の様子を語っています。

 「当時本陣と称する宿駅の一室に居た、切支丹の先生を訪ね、その宗門の研究を兼ねて西洋学を学ぶこととした」と、そして「先生には白米一升を送ることとし、家からそれを盗み持ち寄った」のだと。                   ・・・後藤新平「余の知れるニコライ師」・・・
  (この本陣とは武士が泊まる部屋のことで、駅とは馬を交換する拠点です)

 又、「水沢」の東隣の「人首(ひとかべ)」では、「荷物など一切の検査せられる、一人の役人予の和綴じ本を見て、何か大いに感じたる状(さま)をなし居しが、果たせるかな、その夜予の処に来たり、言葉を和らげて先生と呼び、さきに見ける和綴じ本のことを言い出し、その名を問いかつ如何なることを記せしものなるかを質せり」  ・・・澤邊琢磨談「旧事譚」・・・

 そして、遠野や岩谷堂の関所では、江戸の土佐藩邸から逃亡して10年を経ていながら、抜けきれない土佐訛りが災いして、政府軍の密偵と疑われて拘束され、その都度箱館の「沖の口番所」の海路行証明に救われました。

 しかし、世情ますます厳しくなり、ついに気仙沼の関所では、海路行証明の真贋さえ疑われ所払いとされて、護送処分となってしまい、野辺地(青森)の港から亜米利加船に乗せられ、海峡を渡ってから6カ月後振り出しの箱館へ舞い戻ることになりました。

                                   逃亡浪士 澤邊琢磨」 へ戻る

盛街道の「ハリストス正教会」を平成26年7月4日(金)に訪ねました。

 かつて、「澤部琢磨」が気仙沼を目指して、辿ったであろう街道には、岩谷堂(現奥州市江刺区)・人首・気仙沼に教会があって、そのうちの「岩谷堂教会」と「人首(ひとかべ)教会跡」を訪ねました。
   
 「岩谷堂ハリストス正教会」

 信徒でもあり、奥州市ボランティアガイドで「炎がいどくらぶ」の会長「大波昭」氏が案内してくれました。 

 この教会についての記録は無く詳細は不明ですが、聖堂内のイコノスタス(イコンを飾る仕切板)は、日露戦争の戦利品で、当時中国遼東半島「ロシア旅順要塞」の地下聖堂にあったものだそうですが、古老の言い伝えだけで、その経緯は解らないそうです。

 木製の仕切り版だけが本体で、飾られているイコンについても、中央上部の左右一対のイコンは日本で唯一の女性イコン画家「山下りん」のイコンなのですが、それ以外はどの時代のものなのか、又その由来についても解からないとのことでした。

 これら、日露戦争にかかわる遺品は、日本本土に移送収容されたロシア兵捕虜達が、つくって贈られた「聖幡」が、函館市郊外の「上磯ハリストス正教会」にあります。

 

 「戦争の歴史は、できれば見たくないものですが、その影にある、人の歴史は残したいものだと感じました」

 「人首(ひとかべ)ハリストス正教会跡」

 今は駐車場になっており「宮沢賢治街道を歩く会」が作製した、案内板があります。

 「人首にハリストス正教会(ロシア正教)が発足したのは明治十四年ですが、教会堂が建設されたのは明治二十三年でした。関係資料には、次のように記されています。

 木造ながらビザンチン建築で、四間に六間半、鐘楼を持つ四層からなる堂々たる建物で、世人をして瞠目した会堂でした。この教会堂は人首町中央、一反歩の敷地を選び、一段高い奥に会堂が建てられ、その高さは頂上の十字架まで五十尺もあるもので、何処からでも望みみられました。

 街道に面した百八十坪は庭園とし、門柱から左右の木柵を巡らし、上手下手には枝垂柳の巨木、園内には松・梅・オンコ・木蓮樹・ヒバ等を植え、巨石を配し池を掘るなど、風致を整えるものでもありました。

 しかも堂内の聖像壁画は十数種にも及び「荘厳華麗を称されて」います。「山間の僻邑に、斬新な教会堂があることに旅行者は奇異の感を抱いたのも、不思議でない」と。

 この種の会堂は、当時としては都内はもちろん盛岡・一ノ関にさえ見られなかったことを思えば、その頃の人首の信徒の信仰心が、如何に盛り上がっていたかが窺われます。

 この頃には信者三百名を越し、隆盛さを示しています。そして二十六年には、ニコライ僧生が東北巡回の際、人首に再来しています。

 大正六年と同十三年の二度、宮沢賢治が訪れた時、自然に彼の目にも映ったと思われますが、その後この教会堂は昭和八年の町の大火で焼失しております。」と説明しています。

   大正13年頃の人首町、右端上方にハリストス正教会の鐘楼がみえる。 
 
 同じ道筋に「カトリック教会」もあったようです。

 「カトリック教会跡」

 
 「明治十七年に、盛岡の四谷教会に次いで二番目の建物で、盛岡天主教会主任教師のジャッケ神父によって設立されたもので、明治十九年の信者数は三十九名でした。

 一方のハリストス正教会堂と、二つの鐘が一日に三度同時に鳴り響いたという、 現在建物は取り壊され、明治三十八年のフランス製の鐘だけが残った」と。

 いまは、「宮沢賢治街道を歩く会」の会長「山崎勝」氏によって毎夕5時に、この「アンジュラス」の鐘音を人首の町の人々にとどけているそうです。

 「現 盛街道」


 この街道名は明治になって登場しました、現在の岩手県大船渡市の盛町は、江戸時代は、仙台藩の宿駅「十八里宿」で、その「十八」を年齢18才として「サカリ」と読ませて、「盛」の字を当てたそうです。

 今の街道筋は、旧水沢市(現岩手県奥州市水沢区、北緯39度)で国道4号線から地方道8号線に分岐して、岩谷堂・人首を経て種山高原で397号線となり、さらに107号線となって気仙沼へと向いますが、当時は物見山(標高870m)の「種山高原」などの峠越が続く古道でした。

 現在は岩手県ですが、かつては仙台藩領であって、水沢には留守伊達氏(15,000石)岩谷堂には岩城伊達氏(5,000石)を、中島氏(800石)・小梁川氏(800石)が配置されて、盛岡藩との藩境地帯であるために多くの境目番所がありました

 そして、この人首要害(ひとかべ、ようがい「人首城」)には、慶長11年(1606年)伊達政宗により沼辺摂津守重仲(1,000石)が城主とされて、明治維新まで262年間続きますが、明治2年(1869年)10代「沼辺武房」が城を明渡して廃城になりました。

 「明治2年 人首要害の役宅図」
 明治2年6月8日付けの、縣への提出図面のようですが、このとき既に「空き屋敷」が20軒と記録しています、預足軽屋敷とは「仙台藩仙台城」の直参足軽の屋敷でしょう。

 区割りには間口と奥行きが表示されて、その軒数が計上され、侍屋敷には「佐伯敬之凾」などの姓名が、足軽屋敷には「種吉」・「七三郎」・「寅太郎」等と記されています。

 そのほかに、町屋敷が33区画程ありますが、広さ・名前の書き込みはなく、どうやら報告対象では無いのでしょう。

 人首要害家老・佐伯邸」

 やがて時は過ぎて、城主や他の家老・家臣達はこの土地を去っていきましたが、家老職17代目の「佐伯研二・64才」氏は、今も累代の語りべとして、「御母堂」様とともに、この町に住まわれています。

 現在の屋敷は明治41年に、武家屋敷の風格を残して建替えられもので、門構えは人首要害の大手門でした。

 左の白壁の建物には、詩人でありながら、大東亜戦争当時には「内務省情報局情報官」として、文化団体等を国策指導する立場にあった、大伯父の「佐伯郁郎」氏が、私的な文学活動の交流によって残された、島崎藤村・萩原朔太郎・井上靖などの直筆原稿等、四千点が収納されています。

北原白秋、西条八十の直筆色紙 山本有三、井上靖からの手紙 川端康成など直筆短冊

(注)いずれも「佐伯研二」氏所蔵です、複写転用はご本人の許可を得てください。


 その「佐伯郁郎」氏は、「詩人にして官僚」と「創作にして統制」の世々を一切語ることなく、平成4年享年91歳をもって、鬼籍に入られたそうです。
 
 現在、それらの資料は「人首文庫」として「佐伯研二」氏によって、整理・保管されて、要望により公開もしています。

  教えていただいた方々
岩手県奥州市江刺  炎がいどくらぶ  会長  大浪昭   氏  
岩手県奥州市米里  賢治街道を歩く会  会長  山崎勝   氏
岩手県奥州市米里  旧人首要害 家老  17代 佐伯研二 氏

      



                                                      

 

 

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