「澤邊琢磨」みちのく潜行 慶応4年閏4月9日(1868年5月30日)密かに洗礼を受けて、日本ハリストス正教会の最初の信徒になり(後に日本人最初の神父になる)、ニコライが持たせてくれた和綴じ本を身に結び、さかまく波は泡となって風に散り、踊る船べりにしがみついて、もうろうとした闇のなかに何かをみたでしょうか。 波と風にもまれて、海峡を3日間漂流して、薄もやの中にやっと下北半島の岬を目にします。 五戸までは6人と共に行き、酒井篤礼の家族は故郷の宮城県金成へ向かい、下男の退蔵とも別れて、落馬して怪我を負って知人を頼ろうとする浦野大蔵を介抱しながら、宮古の近くの金浜村へたどりつきました。 「宮さん宮さん、お馬の前に、ひらひらするのは、何んじゃいな」
京都の仁和寺を本山とする、真言宗御室(おむろ)派の門跡(住職)は、環俗して「仁和寺宮喜彰親王」と改めて、新政府の軍事総裁に就きました。 また、浄土真宗はかつて、大坂で織田信長と戦いその後和睦しましたが、その和議の是非をめぐって東西に分裂しました。その後東本願寺派は幕府とは親密な関係にありましたが、動きはじめた時勢に取り残されまいと、鳥羽・伏見の戦には一万両余を幕府討伐のために供出します。 しかし、澤邊が行こうとする土地の末寺は、新政府への反意を持つ在地藩にあり、かつて「平重盛」が号泣したごとく「忠ならんと欲せば孝ならず〜」の板挟みに苦悩したのでしょう。 しかもこの時、後に廃仏毀釈運動につながる、神仏分離令の太政官令が出されて、千年以上の永きに続いた神仏習合は、仏教の伝来を攘夷とする国学思想に呑み込まれようとしていたのです。 「新撰組」の雇い主、会津藩は朝敵とさる。 慶応4年4月11日新政府軍は江戸城に入城しましたが、それに先立つ慶応4年3月23日(1868年4月15日)には、仙台に奥羽鎮撫総督「九条道孝」を送り込み、東北越諸藩に会津・庄内藩への軍事制裁を命じました。 各藩は表向きには命令に従って藩兵を派遣していましたが、しかし会津・庄内藩を討伐する理由を見つけ出せずにいます。 そして、討伐を睥睨して強要する言動への不快感は「奥羽皆敵」の密書の発覚にいたって、ついに4月20日鎮撫総督参謀「世良修蔵」の謀殺となって一挙にふきだし、奥羽越31藩による「奥羽越列藩同盟」の成立へと追い込んでしまい、新政府は失政の汚点を残しました。
新政府軍、そして新政府に寝返った藩と反政府藩、宗門の本山と末寺、神道と仏教とが、腹をさぐる諜報の舞台と化して、禁教の二文字を背にした「澤邊」は、早駕籠・早馬と虚無僧や山伏姿の密偵が暗躍する渦の中へ踏み込もうとしていたのでした。 澤邊・・・義経伝説を往く。
盛街道の宿場「水沢」では、仙台藩水沢城の奥小姓として出仕していた、後に東京市長となる「後藤新平」が11才の頃、友人と共に「切支丹宗の一先生」からキリスト教を学んだと、その時の様子を語っています。 「当時本陣と称する宿駅の一室に居た、切支丹の先生を訪ね、その宗門の研究を兼ねて西洋学を学ぶこととした」と、そして「先生には白米一升を送ることとし、家からそれを盗み持ち寄った」のだと。 ・・・後藤新平「余の知れるニコライ師」・・・ (この本陣とは武士が泊まる部屋のことで、駅とは馬を交換する拠点です) 又、「水沢」の東隣の「人首(ひとかべ)」では、「荷物など一切の検査せられる、一人の役人予の和綴じ本を見て、何か大いに感じたる状(さま)をなし居しが、果たせるかな、その夜予の処に来たり、言葉を和らげて先生と呼び、さきに見ける和綴じ本のことを言い出し、その名を問いかつ如何なることを記せしものなるかを質せり」 ・・・澤邊琢磨談「旧事譚」・・・ そして、遠野や岩谷堂の関所では、江戸の土佐藩邸から逃亡して10年を経ていながら、抜けきれない土佐訛りが災いして、政府軍の密偵と疑われて拘束され、その都度箱館の「沖の口番所」の海路行証明に救われました。
かつて、「澤部琢磨」が気仙沼を目指して、辿ったであろう街道には、岩谷堂(現奥州市江刺区)・人首・気仙沼に教会があって、そのうちの「岩谷堂教会」と「人首(ひとかべ)教会跡」を訪ねました。
この教会についての記録は無く詳細は不明ですが、聖堂内のイコノスタス(イコンを飾る仕切板)は、日露戦争の戦利品で、当時中国遼東半島「ロシア旅順要塞」の地下聖堂にあったものだそうですが、古老の言い伝えだけで、その経緯は解らないそうです。 木製の仕切り版だけが本体で、飾られているイコンについても、中央上部の左右一対のイコンは日本で唯一の女性イコン画家「山下りん」のイコンなのですが、それ以外はどの時代のものなのか、又その由来についても解からないとのことでした。 これら、日露戦争にかかわる遺品は、日本本土に移送収容されたロシア兵捕虜達が、つくって贈られた「聖幡」が、函館市郊外の「上磯ハリストス正教会」にあります。
「戦争の歴史は、できれば見たくないものですが、その影にある、人の歴史は残したいものだと感じました」 「人首(ひとかべ)ハリストス正教会跡」 木造ながらビザンチン建築で、四間に六間半、鐘楼を持つ四層からなる堂々たる建物で、世人をして瞠目した会堂でした。この教会堂は人首町中央、一反歩の敷地を選び、一段高い奥に会堂が建てられ、その高さは頂上の十字架まで五十尺もあるもので、何処からでも望みみられました。 街道に面した百八十坪は庭園とし、門柱から左右の木柵を巡らし、上手下手には枝垂柳の巨木、園内には松・梅・オンコ・木蓮樹・ヒバ等を植え、巨石を配し池を掘るなど、風致を整えるものでもありました。 この種の会堂は、当時としては都内はもちろん盛岡・一ノ関にさえ見られなかったことを思えば、その頃の人首の信徒の信仰心が、如何に盛り上がっていたかが窺われます。 大正六年と同十三年の二度、宮沢賢治が訪れた時、自然に彼の目にも映ったと思われますが、その後この教会堂は昭和八年の町の大火で焼失しております。」と説明しています。
同じ道筋に「カトリック教会」もあったようです。 「カトリック教会跡」 一方のハリストス正教会堂と、二つの鐘が一日に三度同時に鳴り響いたという、 現在建物は取り壊され、明治三十八年のフランス製の鐘だけが残った」と。 今の街道筋は、旧水沢市(現岩手県奥州市水沢区、北緯39度)で国道4号線から地方道8号線に分岐して、岩谷堂・人首を経て種山高原で397号線となり、さらに107号線となって気仙沼へと向いますが、当時は物見山(標高870m)の「種山高原」などの峠越が続く古道でした。 現在は岩手県ですが、かつては仙台藩領であって、水沢には留守伊達氏(15,000石)岩谷堂には岩城伊達氏(5,000石)を、中島氏(800石)・小梁川氏(800石)が配置されて、盛岡藩との藩境地帯であるために多くの境目番所がありました そして、この人首要害(ひとかべ、ようがい「人首城」)には、慶長11年(1606年)伊達政宗により沼辺摂津守重仲(1,000石)が城主とされて、明治維新まで262年間続きますが、明治2年(1869年)10代「沼辺武房」が城を明渡して廃城になりました。 「明治2年 人首要害の役宅図」 「旧人首要害家老・佐伯邸」 現在の屋敷は明治41年に、武家屋敷の風格を残して建替えられもので、門構えは人首要害の大手門でした。
その「佐伯郁郎」氏は、「詩人にして官僚」と「創作にして統制」の世々を一切語ることなく、平成4年享年91歳をもって、鬼籍に入られたそうです。 現在、それらの資料は「人首文庫」として「佐伯研二」氏によって、整理・保管されて、要望により公開もしています。
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